Red_dotMANのブログ

映画の記録(ホラーが多めです)が中心のブログです。

『第三の男』(1949)

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あらすじ

 古友ハリーの紹介でウィーンに訪れる主人公の作家ホリー。しかしハリーは前日に交通事故で亡くなっていた。死亡してから徐々に浮かび上がるハリーの犯罪行為と、悪人と分かっていてもなお愛し続ける愛人のアンナとの関係性。そしてホリーは荒廃したウィーンの街で生きたハリーの姿を目撃する。実はハリーは死んでいなかったのだ!ホリーは友人の事件究明に向け、さらに自ら闇の中へと身を堕とす。

 

概要

 1949年にイギリスにて製作されたフィルム・ノワール。監督は後に『オリバー!』でアカデミー賞を受賞することとなるキャロル・リード。脚本には映画化を前提に執筆を進めていたグレアム・グリーン。有名な音楽はもちろん戦後の荒廃したウィーンを映し出すカメラワークに計算され尽くされたライティングと映像美の面でも評価は高いが、中でも本編10分ほどしか出番はないが圧倒的な存在感を見せたハリー役のオーソン・ウェルズは後世のカリスマ的悪役に影響を与えるほどであった。

 

【第三の男 サントラ】

https://www.youtube.com/watch?v=HC1R3bnWyTE

 

ホリーとハリー

 主人公ホリーとその友人であり今作の悪役であるハリーを対象的に比較するシーンやら台詞が多くある。(アンナの「ハリーには(猫が)よく懐いていた」などなど。)それは何を意味しているのか。

 まずホリーとはどういう人物なのか。ホリーとは劇中でもあったがアメリカの西部劇作家で弱き者を救うという西部劇的な価値観による正義心を持つ男である。そんなホリーを代表する正義感を掲げながら戦時中爆弾を投下するアメリカを見て、正義感を消失してしまった男がハリーである。つまりホリーは能天気なアメリカ人でハリーはそれによって傷ついた男である。

 彼らは非常に対象的な思想を持ち合わせていて、我々の価値観から言えば彼らは”善と悪”なのである。

 

ハリーのカリスマ性

 ハリーの登場シーンは間違いなく今作の一番の見所であるのはいうまでもないが、中でも非常に重要なシーンは観覧車内でのホリーとの会話である。彼らは観覧車に乗りお互いの腹の中を語る。観覧車が頂上に達した時、ハリーは扉を開け下にいる市民を見下しながらこう語る。

あのケシカス一つ消したぐらいで何も起きない。

 弱き者の立場である正義心を振りかざすホリーはもちろん否定するが続けてハリーはこう語る。

イタリアはボルジア家が牛耳った30年間戦火、恐怖、流血の時代だったが、ミケランジェロダ・ヴィンチという偉大なルネサンスを誕生させた。しかしスイスは500年間民主主義と平和が続いたが生み出したものは鳩時計だけだ。

 まさにぐうの音も出ないが聞いていて全くいい気分のしない台詞である。彼はそういうことを平気で言ってしまう男なのである。そして「神を信じないのか?」というホリーの問いに少しあざ笑うかのような顔を浮かべながら「神は信じてるよ」と答えるハリー。

 彼が今作で犯した罪は偽薬をばらまいていたことだ。しかしそれは彼の私利私欲のためにやっていることではない。そこに純粋悪が存在する。彼の真の目的は、ただただ楽しむことである。人の持つ価値観、信じているものを揺さぶり翻弄されゆく搾取される側の人間、つまり弱き者をいじめて楽しんでいるのである。バットマンジョーカー、ファイト・クラブのダーデン、地獄の黙示録のカーツ大佐と非常に似ている危険な存在であるのが今作のハリーである。

 そんなハリーに翻弄されるのが主人公のホリーであり、ハリーの愛人のアンナであり、この映画に出てくる人物全員であり、見ている我々である。

 

【予告編 ハリー登場シーン(57秒のとこ)】

https://www.youtube.com/watch?v=PfVtb76KclY

 

決着

 ハリーとホリーという対象的な男二人は互いに己自身を見る。いわばハリーはホリーでありホリーはハリーである。(おそらく名前が酷似しているのは意図したものである。)バットマン然りファイト・クラブ然り地獄の黙示録然り、"善と悪"はどちらかが淘汰されなければならない。よってこの映画例外ではなく最後はホリーの手によってハリーは死亡する。(映画内ではハリーの死亡する瞬間は描かれていないが、おそらくホリーがハリーを撃った。)そして彼は自らの悪との戦いに勝利し、初めて純粋な善というものから逸脱することができ、人として成長する。成長の象徴として彼はとうとう最後に「キャラハン少佐」ではなく「キャロウェイ少佐」と間違えずに名前を言えるようになる。

 そして映画は冒頭と同じようにハリーの葬式で終わる。今度は本当にハリーは死んだ。

 そして並木道の隅で向こう側から歩いてくるアンナを待つホリー。彼は声をかけずただただ見守る。そしてそんなホリーを無視してカメラまで歩き続けるアンナで映画は終わりを迎える。最後まで西部劇的な正義を振りかざし、純粋悪を倒し見事成長を遂げたホリーの元に彼女は来ずに最後までハリーを愛していたのだった。