『ジキル博士とハイド氏』(1931)
①あらすじ
人間には善と悪の面があると提唱するジキル博士は、自ら開発した薬物を服用したために暴力的で性欲にまみれたハイドに変態する。そこからジキルは徐々に薬物中毒になり、とうとう薬物の力なしでもハイドは度々現れるようになった。
(写真左がハイド氏、右がジキル博士)
②概要
今作はロバート・ルイス・スティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」を原作にしたアメリカが送るホラー映画である。主演のフレドリック・マーチは今作でアカデミー男優賞を獲得した。
※2018年3月より日本で「ジキル&ハイド」という題でミュージカルが行われる。
③ジキルとハイドの関係性
ジキルとハイドは劇中でも台詞で説明があったが、要は一人の人間の内面を善と悪の両極端に振った時のその両端に位置する者たちであって、善がジキル、悪がハイドである。今作の場合はジキルという温厚で誠実な性格で、端正な顔をした男が、唸り声をあげながら全身から少しずつ毛が生え、犬歯が長く伸び、一見ゴリラのような男に変態する。
そんなハイドに軟禁され、虐待されているアイヴィーという女性がいるのだが、そんな彼女がハイドの目を盗み逃げ出し、知り合いのジキル博士に助けを乞うシーンで(ジキルこそハイドなのだが)、「(ジキルに向かって)あなたはまるで天使のよう、それに比べてハイドは私にとって悪魔なのです。」という非常に象徴的な対比を表す台詞がある。
そこでジキルは改めてハイドの愚行の数々を認知し、その彼女に「ハイドは二度と、あなたの前には現れないでしょう。」と約束をし、彼女は初めこそ信じれなかったが、ジキルの本気の目から何かを感じ取ったのか、笑顔を見せ感謝を伝えた。
しかしハイドはまた彼女の前に現れた!ジキルは薬を断ったはずだったのに、なんの脈絡もなしにジキルが現れてしまったのだ。そしてアイヴィーはハイドによって絞め殺されてしまう。
④ハイドとは
ハイドとは一体何者なのか。劇中では悪魔だの獣だの嫌な言われようだが、彼はジキルという男の本来の姿なのである。ジキルから彼に変化するときは必ずジキルは何かを我慢し、偽りの自分を振舞っている。つまり彼は社会、文化によって抑圧されたジキルの持つ本来の欲が体現したもう一人のジキルである。最初は薬物を頼りにハイドへと、つまり社会的な抑圧を忘れ本当の姿を見せるが、一度解放されてしまうと、その味を忘れることができなくなり自ら心を許してしまう。
ハイドとは、一般的にダメだと言われていることに対する欲望の化身である。そしてそれは誰でも持っている至って正常な欲望である。だからこそこの映画は怖いのである。そしてそれと同時に悲しいと感じてしまう。
⑤二重人格の映画的な描き方
先にも書いたがハイドは人間とは思えない風貌である。しかし今作の話からしてハイドは別にジキルと同じ風貌でも良いはずなのだが、これまた映画の素晴らしいところでそのような抑圧されている欲望とはまるで野生的なようなので、象徴的に表すようにあえて野生動物のような風貌に設定されている。(1941年版はジキルとハイドで風貌が変わらない。そのため役者の演技力が問われるが主演のスペンサー・トレイシーは見事演じ分けた。)
このまさに映画的な二重人格者の描き分けは『ハルク』『狼男』や『サイコ』も同様に描き分けているがどの映画も二重人格設定を装った自分自身の持つ抑圧した感情の体現であり、”内なる恐怖”である。
⑥結末(ネタバレ注意)
最終的にハイドは警察、及び住民に追われ逃げ惑う。まさに獲物を狙う狩人のように。そして自宅に追い込まれたハイドはとっさにジキルに変わるものの正体がバレたため取り囲まれる。万事休すのハイドは壁に飛び移り伸びた爪で威嚇をするが集団の中の一人が発砲をしあっけなくハイドは死亡する。その時、ハイドの風貌が徐々にジキルに変わって行く。最後はすでにジキルとハイドの精神は統一されてしまったのだ。
ジキルは己に正直になり、欲望を抑圧するのをやめてしまった。その結果彼は”社会”によって亡き者にされてしまったのだった。